六畳一間

ボーイッシュなレズは彼女を作るのが大変だ

男の子みたいな女の子3

 

末期的な高校生活


私は中学、高校と自分のセクシュアリティを隠していた。
好きな女子に好きだと告げていた小学生の頃の私とは違って、
私は本当の自分の気持ちを内緒にした。
ついでに自分は男子として生きたい気持ちも隠していた。

自分で選んだ高校は私服だったので、いつもボーイッシュな恰好でいられた。
好きな子に好きだと言わなくても、仲良くしていた学校の友達は、
私が女子を好きで、私のことを男の子みたいだと思っていたのでは?
のちに知るセクシュアリティの用語、
トランスジェンダーとかタチとかネコだとかを
私も友達も知らなかったけれど、
友達は私が同性を好きなことを知ってくれていた感じがする。
Hちゃんは大人になって一緒に飲んだとき、
私のことを「バイだと思っていた」と言った。
私は17歳の夏休み、美大受験の予備校に通った。
毎日デッサンしたりデザイン画描いたり。
先生も生徒も性別のよく分からないひとが、当たり前のように教室にいた。
その夏、なんだかんだ私は気ままだった。

M


私はいちばん仲良くしていたMのことが好きだった。
よく自転車で2人乗りして、
古本屋やディスクユニオン、中古レコードショップに行った。
好きな音楽を詰めたカセットテープをウォークマンで聴きながら、
自転車を走らせるのは最高に気持ちよかった。
Mが作ってくれるカセットテープは、昭和の歌謡曲とかJAZZとかボサノバとか。
私はMの大人っぽいカセットテープに魅了された。
Mがそうした曲をなぜ知っているのか?ものすごく気になった。
たぶん、Mはお母さんの影響を受けていたんだと思う。
お母さんが70年代に着ていたワンピースを着たM。
その姿に私はせつなさを覚えるほどだった。
私はMのお母さんのことも大好きだった。
趣味でボサノバを習っているというお母さんの声は、
少しハスキーで、あまり母親っぽくない雰囲気がカッコよかった。
煙草とコーヒーが似合う美人だった。

Mは子どもっぽい私と違って、いつも大人のにおいがした。
私はMをはじめ高校の友達と遊んだ。
Mは彼氏が音楽ライターだったり、
有名な脇役俳優さんと2人きりで遊んだりしていた。
高校の友達とのつき合いは最低限な感じだった。

私とMの共通点は通っている高校が嫌だということ。
とくに男子は子どもじみていて、私たちはうんざりしていた。
当時の言葉でいうと彼らは「いきがっていた」。

私は高校卒業に向けて、あまり高校に行かなくなった。
その代わり、渋谷の自宅で悪い方法で手に入れたCDを聴いたり、
下北のTSUTAYAで借りたビデオテープを観たりしていた。
音楽をかけながら本を読む時間が多かったと記憶している。
いつもお酒を飲んで、煙草を吸っていた。
カッコつけもあったけれど、とにかく酔っていないとダメだった。

学校の勉強はほぼしてなくて、試験の前だけ適当に軽く勉強して、
下から4分の1ぐらいの成績をキープした。

父とのぶつかり合い


進路を考えなければいけない時期になっても、
絵が描きたいと思うだけで、将来に向けて考えをまとめることができなかった。
父は芸術を学んだ人のどれくらいが、ソレデタベラレルトオモウノカ?
と言う。セメテ「アブラエ」ヲヤメテ「デザイン」ニシナサイ?
私が絵を描きたい、なにか絵を描く仕事がしたい。
そう言うとモグラたたきみたいに、父は私の言うことを確実に潰した。
もともとの家庭環境の悪さに加えて、
わが家では、子のやりたいことに父は断固反対だった。
父は父のやっている仕事に役立つ経営学部を勧めてきた。
あるいは父の好きな不動産と関わりのある建築学科を勧めてきた。
すみません、これ私の人生なんですけど?
母方の祖母は俳句や作文が得意な私に文学部や編集の仕事があるよと教えてくれた。
父は親らしいことをしないくせに、私の進路とか生き方を管理した。
私は父とのやり取りに疲れて絵を諦めた。
私は父の思う通り、芸術学部を諦めた。
そんな父と私のやりとりに、きっと弟2人もげんなりしていたと思う。
そう。2人もきっと夢を見ることができなかったはず。
ドウシタラコノイエカラデラレルノ?
私たち兄弟3人の気持ちは一緒だったはず。

そもそも私は全然勉強していないし、デッサンの練習もしてないし。
ただお酒を飲んで煙草を吸っているだけの私が入れる大学はどこにもなかった。

私はスーツを着るのが嫌で高校の卒業式に出なかった。
Mは卒業式には出たけれど、私と同じで希望の大学に受からなかった。
私たちは1年間浪人することになった。

浪人生活


同じ高校のクラスメイトで浪人する人は、
大抵、河合塾だとか代々木ゼミナールだとかの予備校に通わせてもらう。

私は「お前はお前の責任で大学受験に失敗したのだから、自分のお金で勉強しろ」と父に言われてしまった。まあ、私の責任だけど…。

私は「芸術を学んでも食べていけない」と365日、
父に言われて自分に自信が持てなかった。
かと言って、父の言う通り経営学部やら建築学部を目指すのも嫌だった。
はやけくそで経済学部を目指すことにした。
「経済学部」は私の苦手なサラリーマンを目指す男子がいっぱいいると知らずに。
ついでに言えば無難に結婚したいと思う女子がいっぱいいると知らずに。
この選択が自分にまったく向いていないと、父はアドバイスしてくれなかった。

とにかく目標を真ん中の大学の経済学部に決めた。
参考書代とか予備校の夏期講習の授業料を稼ぐために、
私は自宅そばの父の会社でバイトした。
朝起きてすぐ勉強して、午後バイトした。
1年間、Mと1~2回会っただけ。
お酒も一滴も飲まないで、ずっと勉強した。
もし、大学に入れないならば、自分がどうやって生きたらいいか?
分からなくて不安で。また、どこか学校に所属したら、
猶予期間を手に入れられる気がして。
現代文、古典、英語、世界史の平均の偏差値が10ちょっと上がって、
目標にしていた大学に受かった。
目標にしていた大学よりもう少し上の青学とか受かりそうなぐらい、
模試の結果が良くなっていたけれど、力およばずだった。

大学生活


春、みんなが打ち解けるための最初のイベントに参加した。
私が選んだ大学は、悲しいぐらいいきがってる奴らの集合体だった。
やばい選択をしたと思って、がっかりした。

高校からエスカレーター式で入ってきた学生が多く。
彼らは中学、高校と遊ばないで一所懸命に勉強してきたひとたち。
大学で弾けたい。まあ、自然と言えば自然な流れ?
私はずっと遊んできて、大学で勉強したかった。
そんな奴はいない。

私は大学に馴染めなかった。
成績悪めの女子大に滑り込んだMも大学にがっかりしていた。

Mは下北にかつてあった酒場のバイトを楽しんでいた。
そこのお店を切り盛りしているお姉さんと仲良くなって。
薄暗い店内に流れる音楽を吸い込みながら、
Mはいろんなおつまみを作れるようになっていた。
見た目も性格もかわいいから、いろんなお客さんにかわいがられていた。
私はときどきMの働く店に飲みに行った。
カウンターでMが働くのを眺めながらお酒を飲んだ。
ほどなくしてMに彼氏ができた。
私は実家を出たMと彼氏が同棲しているところに、
しょっちゅう遊びに行った。
私たちはよく3人でいた。私はMと一緒にいたかったけれど、
前みたいに2人でいられる時間が減った。
このままMのそばにいてもしょうがない。
私はMの彼氏のことも気に入ったし、
Mとすこし離れることにした。

私は思った。

レズビアンはこの世のどこにいるのだろう?

当時、インターネットを使い始めるひとがちらほらいた。
私はインターネットに希望を感じていた。
もしインターネットなるものを引いたら、
ほかのレズビアンを見つけることができるのではないか?

私は父の会社で相変わらずバイトしていた。
ほかの会社でふつうの女の子らしくするのが嫌で、
父の会社でバイトしていた。
父の会社だと、愛想が悪いのも許されて。ラクだった。
とにかくバイト代を貯めて、私は初めて自分のパソコンを買った。

いまのよりずっと分厚いノートパソコンを手に入れた。
嬉しくてたまらなかった。

父にインターネットを引きたいと言ったら、
案の定断られた。
父はもしかして「イヤイヤ期」なのかもしれない。
インターネットをしている間、電話が繋がらないのは困るからダメだ?
うるせえ。
私はどうせ横浜のマンションにほぼいない父に無断でインターネットを引いた。

電話線をパソコンに繋ぐ、
通信音が鳴る。
さあ、インターネットの世界にようこそ。

レズビアンはどこにいる?

 

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