六畳一間

ボーイッシュなレズは彼女を作るのが大変だ

セクシーではないけれど

私はセクシーではない。哀しいほどに。

10代の頃、いまもつき合いのある友達Mが大人っぽくてセクシーで憧れた。
Mは背の高い美人でお姉ちゃんの影響で音楽に詳しくて、
別の高校の大人っぽい友達とクラブに出かけていた。
いまは体調を崩しているけれど、Mは病めるときも健やかなるときもセクシーだ。
どんなときもMのそばには男性がいる。
ちなみにその男性とMの近くに私がいる。

私はボーイッシュだしノンケでフェムのMと自分を単純比較もできないけれど。
なにをもって色気というかは難しい。
とはいえ私は見た目にすぐれた口数の少ないクールな人をセクシーだと感じる。
口数が少ない人はどんな人かよくわからなくて知りたくなる。

私はよくしゃべる。しゃべり過ぎていると言っていい。
例えば、どんな下着が好みか?
下着の前に下着がちらっと見えるのがいいと思う。
下着が全部見えていたり、何もする前から裸だったら?
ドキドキできないのと同じで、
私はいろいろしゃべり過ぎるから最初から裸みたいな感じ。
これはいけない。
いけないと思いつつおしゃべりな私なのだ。

この前、看護師の友達と会った。
私はかわいいタイプらしい。
友達の方が2歳ほど年上なんだけれども。
友達が言うには私は年上が合っているそうで。
たしかに私は相手が年上となると、すぐ懐にころがりこんでしまう。
元カノも8個上だったし。
最近は年下も興味があるけれど、私が緊張してしまう。
ひと回り違う子から見る私はどんなだろうか?
きっとセクシーには見えないと思うけれど…。

セクシーだとか色気だとか?
それはどんなものか?
ふつうは性的魅力を言うように思うけれど、
ひろく人を惹きつける魅力のことを言うようだ。
愛嬌、風情、おもしろみのことも指すらしい。

性的魅力は自分にはまったくない気がするけれど、
風情やおもしろみなら少しはあるかと。

「また会いたい人」でありたいと、日々自分の魅力を磨いているつもり。
効果が出ているか?は不明だけれど…。

 

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男の子みたいな女の子3

 

末期的な高校生活


私は中学、高校と自分のセクシュアリティを隠していた。
好きな女子に好きだと告げていた小学生の頃の私とは違って、
私は本当の自分の気持ちを内緒にした。
ついでに自分は男子として生きたい気持ちも隠していた。

自分で選んだ高校は私服だったので、いつもボーイッシュな恰好でいられた。
好きな子に好きだと言わなくても、仲良くしていた学校の友達は、
私が女子を好きで、私のことを男の子みたいだと思っていたのでは?
のちに知るセクシュアリティの用語、
トランスジェンダーとかタチとかネコだとかを
私も友達も知らなかったけれど、
友達は私が同性を好きなことを知ってくれていた感じがする。
Hちゃんは大人になって一緒に飲んだとき、
私のことを「バイだと思っていた」と言った。
私は17歳の夏休み、美大受験の予備校に通った。
毎日デッサンしたりデザイン画描いたり。
先生も生徒も性別のよく分からないひとが、当たり前のように教室にいた。
その夏、なんだかんだ私は気ままだった。

M


私はいちばん仲良くしていたMのことが好きだった。
よく自転車で2人乗りして、
古本屋やディスクユニオン、中古レコードショップに行った。
好きな音楽を詰めたカセットテープをウォークマンで聴きながら、
自転車を走らせるのは最高に気持ちよかった。
Mが作ってくれるカセットテープは、昭和の歌謡曲とかJAZZとかボサノバとか。
私はMの大人っぽいカセットテープに魅了された。
Mがそうした曲をなぜ知っているのか?ものすごく気になった。
たぶん、Mはお母さんの影響を受けていたんだと思う。
お母さんが70年代に着ていたワンピースを着たM。
その姿に私はせつなさを覚えるほどだった。
私はMのお母さんのことも大好きだった。
趣味でボサノバを習っているというお母さんの声は、
少しハスキーで、あまり母親っぽくない雰囲気がカッコよかった。
煙草とコーヒーが似合う美人だった。

Mは子どもっぽい私と違って、いつも大人のにおいがした。
私はMをはじめ高校の友達と遊んだ。
Mは彼氏が音楽ライターだったり、
有名な脇役俳優さんと2人きりで遊んだりしていた。
高校の友達とのつき合いは最低限な感じだった。

私とMの共通点は通っている高校が嫌だということ。
とくに男子は子どもじみていて、私たちはうんざりしていた。
当時の言葉でいうと彼らは「いきがっていた」。

私は高校卒業に向けて、あまり高校に行かなくなった。
その代わり、渋谷の自宅で悪い方法で手に入れたCDを聴いたり、
下北のTSUTAYAで借りたビデオテープを観たりしていた。
音楽をかけながら本を読む時間が多かったと記憶している。
いつもお酒を飲んで、煙草を吸っていた。
カッコつけもあったけれど、とにかく酔っていないとダメだった。

学校の勉強はほぼしてなくて、試験の前だけ適当に軽く勉強して、
下から4分の1ぐらいの成績をキープした。

父とのぶつかり合い


進路を考えなければいけない時期になっても、
絵が描きたいと思うだけで、将来に向けて考えをまとめることができなかった。
父は芸術を学んだ人のどれくらいが、ソレデタベラレルトオモウノカ?
と言う。セメテ「アブラエ」ヲヤメテ「デザイン」ニシナサイ?
私が絵を描きたい、なにか絵を描く仕事がしたい。
そう言うとモグラたたきみたいに、父は私の言うことを確実に潰した。
もともとの家庭環境の悪さに加えて、
わが家では、子のやりたいことに父は断固反対だった。
父は父のやっている仕事に役立つ経営学部を勧めてきた。
あるいは父の好きな不動産と関わりのある建築学科を勧めてきた。
すみません、これ私の人生なんですけど?
母方の祖母は俳句や作文が得意な私に文学部や編集の仕事があるよと教えてくれた。
父は親らしいことをしないくせに、私の進路とか生き方を管理した。
私は父とのやり取りに疲れて絵を諦めた。
私は父の思う通り、芸術学部を諦めた。
そんな父と私のやりとりに、きっと弟2人もげんなりしていたと思う。
そう。2人もきっと夢を見ることができなかったはず。
ドウシタラコノイエカラデラレルノ?
私たち兄弟3人の気持ちは一緒だったはず。

そもそも私は全然勉強していないし、デッサンの練習もしてないし。
ただお酒を飲んで煙草を吸っているだけの私が入れる大学はどこにもなかった。

私はスーツを着るのが嫌で高校の卒業式に出なかった。
Mは卒業式には出たけれど、私と同じで希望の大学に受からなかった。
私たちは1年間浪人することになった。

浪人生活


同じ高校のクラスメイトで浪人する人は、
大抵、河合塾だとか代々木ゼミナールだとかの予備校に通わせてもらう。

私は「お前はお前の責任で大学受験に失敗したのだから、自分のお金で勉強しろ」と父に言われてしまった。まあ、私の責任だけど…。

私は「芸術を学んでも食べていけない」と365日、
父に言われて自分に自信が持てなかった。
かと言って、父の言う通り経営学部やら建築学部を目指すのも嫌だった。
はやけくそで経済学部を目指すことにした。
「経済学部」は私の苦手なサラリーマンを目指す男子がいっぱいいると知らずに。
ついでに言えば無難に結婚したいと思う女子がいっぱいいると知らずに。
この選択が自分にまったく向いていないと、父はアドバイスしてくれなかった。

とにかく目標を真ん中の大学の経済学部に決めた。
参考書代とか予備校の夏期講習の授業料を稼ぐために、
私は自宅そばの父の会社でバイトした。
朝起きてすぐ勉強して、午後バイトした。
1年間、Mと1~2回会っただけ。
お酒も一滴も飲まないで、ずっと勉強した。
もし、大学に入れないならば、自分がどうやって生きたらいいか?
分からなくて不安で。また、どこか学校に所属したら、
猶予期間を手に入れられる気がして。
現代文、古典、英語、世界史の平均の偏差値が10ちょっと上がって、
目標にしていた大学に受かった。
目標にしていた大学よりもう少し上の青学とか受かりそうなぐらい、
模試の結果が良くなっていたけれど、力およばずだった。

大学生活


春、みんなが打ち解けるための最初のイベントに参加した。
私が選んだ大学は、悲しいぐらいいきがってる奴らの集合体だった。
やばい選択をしたと思って、がっかりした。

高校からエスカレーター式で入ってきた学生が多く。
彼らは中学、高校と遊ばないで一所懸命に勉強してきたひとたち。
大学で弾けたい。まあ、自然と言えば自然な流れ?
私はずっと遊んできて、大学で勉強したかった。
そんな奴はいない。

私は大学に馴染めなかった。
成績悪めの女子大に滑り込んだMも大学にがっかりしていた。

Mは下北にかつてあった酒場のバイトを楽しんでいた。
そこのお店を切り盛りしているお姉さんと仲良くなって。
薄暗い店内に流れる音楽を吸い込みながら、
Mはいろんなおつまみを作れるようになっていた。
見た目も性格もかわいいから、いろんなお客さんにかわいがられていた。
私はときどきMの働く店に飲みに行った。
カウンターでMが働くのを眺めながらお酒を飲んだ。
ほどなくしてMに彼氏ができた。
私は実家を出たMと彼氏が同棲しているところに、
しょっちゅう遊びに行った。
私たちはよく3人でいた。私はMと一緒にいたかったけれど、
前みたいに2人でいられる時間が減った。
このままMのそばにいてもしょうがない。
私はMの彼氏のことも気に入ったし、
Mとすこし離れることにした。

私は思った。

レズビアンはこの世のどこにいるのだろう?

当時、インターネットを使い始めるひとがちらほらいた。
私はインターネットに希望を感じていた。
もしインターネットなるものを引いたら、
ほかのレズビアンを見つけることができるのではないか?

私は父の会社で相変わらずバイトしていた。
ほかの会社でふつうの女の子らしくするのが嫌で、
父の会社でバイトしていた。
父の会社だと、愛想が悪いのも許されて。ラクだった。
とにかくバイト代を貯めて、私は初めて自分のパソコンを買った。

いまのよりずっと分厚いノートパソコンを手に入れた。
嬉しくてたまらなかった。

父にインターネットを引きたいと言ったら、
案の定断られた。
父はもしかして「イヤイヤ期」なのかもしれない。
インターネットをしている間、電話が繋がらないのは困るからダメだ?
うるせえ。
私はどうせ横浜のマンションにほぼいない父に無断でインターネットを引いた。

電話線をパソコンに繋ぐ、
通信音が鳴る。
さあ、インターネットの世界にようこそ。

レズビアンはどこにいる?

 

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男の子みたいな女の子2

スカートの制服が嫌!


僕という女の子は小学6年生で「あたし」になった。
中学2年生で生理がやってきた。
生理は憂鬱を連れてきた。

相変わらず好きな女の子がいたけれど、
私は好きな子に好きだとは言わなくなった。

私は自分が好きになるのが同性であることを隠すようになった。
無理に男の子を好きになろうとしてみたりもした。

それでもどうしてもスカートとか制服を着るのが嫌だった。
平成の時代。中学校の女子生徒の制服はスカートだった。
両親が買ってくれる新品の制服にもため息しか出ない。
生理も毎月容赦なく来る。

私が14歳のとき、母が他界してから家庭環境が悪化した。
当時、私たち一家は渋谷の高級住宅街のマンションに住んでいた。
母亡き後、そこに私と弟2人と父とで暮らすのだと思っていた。
それがそこに知らない女のひとがいた。
父に好意を寄せていると思われる女性Mさんだ。
父がのちに、私が二十歳になった時に再婚する女性。
当時はとにかく暗い感じの人で、
私はMさんを新興宗教の信者かなにかだと思った。
真っ黒のおかっぱ、ぼろぼろの白いトレーナーにデニム。
あまりにも飾りっ気がなくて、さみしい感じがする。

父もMさんもマンションの近くの小さな会社で働いていて、
ほとんど家には帰って来なかった。

少し離れていても父とMさんとの新しい生活は地獄だった。

高校受験の勉強もまったく集中できなかった。
学校の成績は一度底まで落ちた。

私は渋谷区とか新宿区の学校でなく、
世田谷区の高校を選んだ。
渋谷の中学校が荒れていて、私は都会の学校に懲りていた。
でも、その高校を選んだ本当の理由は、
制服がないことだった。
私服でいいなら、私はその学校にどうしても行きたかった。
ついでに言えば、学食もあるのがよかった。
わが家では食べ物が切れていることがよくあったので。

中学校の担任の先生は
「木陰さんの成績では受からないでしょう」と言って、
もう少し偏差値の低い別の学校を薦めた。
父も私も先生の意見を聞かなかった。

私はスカートを穿きたくない一心で勉強をがんばった。
翌年3月、私は希望の学校に上から7番目で合格した。

好きな服で通学できる学校に入ったけれど、
私の悩みは尽きなかった。

友達がたくさんできて楽しくて、
あちこち遊びに行きたいのに、
私にだけ6時という厳しい門限があった。
たぶん父は渋谷で遊びすぎて、
私がおかしくなることを恐れたのだと思う。
弟2人には門限がないのに!
そんなことが怖いなら、渋谷のど真ん中になど住まなければいいのに。
バカみたいだ!
しかしマンションには父もMさんもいない。
私は門限なんか守らなかった。

それがマンションに1日中父とMさんがいることになった。
広いマンションの1階部分が事務所になった。
家族はマンションの2階部分に住むようになった。
父とMさんは食事と睡眠の時間以外、マンションのなかで仕事をしていた。
私は2人が仕事をしている部屋を通るとき、申し訳ない感じがした。
遊んでばかりで、ごめんなさい。
もちろんMさんと父は同じ部屋で寝起きした。
新しい子が生まれた。
それが一番下の弟Sだ。
Sが生まれて、かわいい赤ちゃんがいるはずなのに…
わが家の食卓は無言だった。
父が言い出して猫をたくさん飼うことになって会話は生まれたが、
私と弟2人は父にもMさんにも心を開かなかった。
私は「Mさん」と名前で呼んだが、弟2人はいつまで経っても
Mさんのことを苗字の「Aさん」と呼んだ。
私たち兄弟は文具とか医者代とかお金を立て替えると、
家に帰ってMさんに伝える。
するとMさんは「清算してください」と言う。
家のなかでお会計ですか。

わが家は仕事と家庭が混線していた。
家なのに気持ちが休まらない。

M


私は同じ高校のMといちばん仲よくしていた。
初めて会ったとき、私は愛想がよすぎるMを信用できなかった。
それがMが私に宇宙人の本を貸してくれたあたりから、
急激に私の心が開いていった。
ふたりでバカなことを死ぬほどした。
Mの中学の友達と3人で遊ぶこともあった。
3人あるいは2人でフリマに行ったり、
古本屋だとかCDショップに行ったり。
さみしがりな私と違って、Mはひとりの時間を大切にしていた。
かわいくて性格のいいMは男子にも女子にも人気だった。
Mはかわいかった。
Mに好きな人ができたとき。
私は自分がMのことが好きだと気がついた。
Mが好きな人の話をすると、私はせつなくなった。
好きすぎて、いじわるしてしまったりした。
私はMより子どもじみていた。
自転車に2人乗りをする。
私の方が重たいからと言ってMが漕ぐ。2人でサドルを半分こする。
風が吹いて、Mのシャンプーのにおいが流れてくる。
それを吸い込むとせつなくなる。
いまMに好きな人がいないから、私がいちばんMに近いはず。
魅力的なMは同じ高校の男子生徒を好きになったりもしたけど、
大人の男性とつき合ったりしていた。
短い間ではあったけれどMは音楽ライターの男性と、つき合っていた。
私はその男性とMと私の3人で一度だけ会った。
その人は音楽関係の仕事をしていて、大人である。
私は逆立ちしてもかなうわけもなく。
自分が冴えなくて幼くて泣きたくなった。
私はMの家によく転がり込んだ。
Mにはかわいい2人の妹がいた。
やっぱり妹もかわいくて性格もいい。
お母さんは私のことをかわいがってくれた。
飲んだくれてMの家の玄関前で寝転んでいたら、
お母さんが中に入れてくれた。
ふつう怒るところをお母さんは「迎え酒よ」と言って、
一緒に飲んで私の話を聞いてくれた。
早朝に目が覚めると、
Mのお母さんとお父さんの会話が聞こえる。
ああ。ふつうの家っぽくて、私ここのうちの子になりたい。
涙が出そう。
お父さんも私のことを知ってくれている。
迷惑な私なのに家族みんながやさしい。
家族みんながやさしいからMもやさしいのだろう。
思い返せば、本当に迷惑かけてばかりで、
恥ずかしく思う。
もう20年ぐらいMと会ってないけれど、私はMの声を忘れない。

高校では私はMと同じで、どこのグループにも属さなかった。
私はどこのグループとも仲よくしていた。
高校生の頃、悪いことばかりしていた。
そして、毎日死にたい気持ちだった。
死のうとしたことがあったけど、
Mにすごく怒られた。
Mに嫌われるのは辛い。
私は命を粗末にする遊びを一切やめた。
入学時は上から数えた方が早かった成績の順位も、
卒業時は下から数えた方が早いぐらいだった。
それでも無事に卒業できたのはMのおかげだし。
それ以外にも仲良くしていた友達のおかげだった。
高校生の頃はもちろん、大学生の頃も、社会人の頃も、
いつもいつも、私は友達に支えられていた。

 

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男の子みたいな女の子1

 

僕と言う女の子だった


子どもの頃、私は自分のことを「僕」と言っていた。
母と弟2人と出かけると3人とも男の子と間違われることは日常茶飯事。
そのたび、母が「この子は女の子で…」と訂正する。
私は自分を男の子と思っていたけど、男の子に間違われると
なぜだか恥ずかしかった。
弟と同じように、私にもおちんちんが生えてくると思っていた。
スカートが大嫌いで絶対に履かなかった。
大好きな母方の祖母は、初孫で女の子の私に
とってもかわいいひらひらな服を着せたがった。
「僕じゃなくて私でしょう!」と言った。
そんな祖母の思いを全部無視。
いつもズボン。しかも薄着。
母は女の子らしい服を私に着せようとはしなかったけれど、
私が冬でも半ズボンであることを嘆いた。
「女の子は身体を冷やしちゃだめでしょう!」
「女の子は〇〇」と言われると、私は猛烈に反抗した。
そのワードを言われると信じられない頑固になってしまった。
とにかく服も自転車も男の子みたいだった。
おもちゃは面白く、車のおもちゃなど男の子向けのおもちゃを買ってもらうのに、
おままごとセットやバービー人形とか家もほしがった。
いまでこそ、女の子も男の子も服やランドセルを自由に選べるけれど、
昭和の子どもは女の子は女の子らしく、男の子は男の子らしく。
そういう時代だった。
幸い父も母も私が僕と言ったり、男の子みたいな服を着ることに、
なにも言わなかった。

幼稚園や小学校では男の子に交じって遊んでいた。
勝気なところもありつつ、男の子に強く言われるとすぐ泣いた。
算数が苦手で居のこり勉強させられて、わからなくても涙がこぼれる。
泣き虫だった。

女の子が好きだけど…


好きな子はいつも女の子だった。
小学校低学年の頃は好きな子ができると、
「〇〇ちゃんが好きだよ」と気持ちを伝えていた。
高学年になると自分がほかの子と違っておかしいと思い始めて、
好きな子に告白しなくなる。
6年生の夏、引っ越しをキッカケに「あたし」と言うようになった。
私のことをよく知らない新しい学校のクラスメイトは、
私が「あたし」と言っても笑うことはなかった。
家族は違和感があったかもしれないけれど、
誰も私が「あたし」と言っても笑わなかった。
私は「あたし」なんて言いたくなかった。
見た目も男の子みたいなのに、私は男子から好意をもたれた。
どの男子の好意にも応えられなかった。
それなのに2人だけ好きな男の子ができた。

小学校2年生のときに休み時間に一緒に遊んでいた5年生の男の子。
整った顔立ちで、とてもやさしいお兄さんだった。
その子といつまでも遊んでいたかったけれど、
私は転校して東京から茨城へ移った。

小学校5年生のときに同じクラスだった男の子。
早熟で話の面白い子。私から気持ちを伝えた。
それからは毎日一緒に下校したり、
バレンタインやホワイトデーに手づくりのお菓子を送りあったり、
その子の家に遊びに行って一緒にファミコンをしたりした。
私は転校して茨城から東京へ移った。
その子をうちに泊めたいと私が言ったら、母は怒った。
「なにかあったらどうするの!」。
私は「なにか」がなにかわからなかった。

県をまたぐと、行動範囲の狭い小学生は、
好きな子とも友達とも繋がりが切れてしまう。

小学校5年生のときに好きだった男の子を大人になってから、
Twitterで見つけた。太ったサラリーマンのおじさんになっていた。
もちろん自分だっておばさんなのだけど。
ぱっとしない旦那。子どもしか楽しみのないパパ。
大人になった彼を私はそんなふうに感じてしまった。
きっと私が異性愛者だったとしても、私と彼の人生は平行線だろう。

私は初潮が来るまで、男の子みたいに自由でいられた。
初潮が来るまでは。
14歳の夏、学校のトイレで経血のついた下着を見たとき。
私は自分が女の子なんだとわかった。
おちんちんなんて生えてくるわけがない。
ショックだった。

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あなたが男だったら私はあなたを好きにならなかった

 

男の魂が宿っている?


「君には男性の魂が宿っているんだね」
以前お世話になっていた婦人科の先生が私のことをそう言った。

元カノにつき添ってもらった診察時に先生がそう言った。
見た目も中身も女性らしい元カノと見た目がメンズライクな私の組み合わせを見て、
先生は私には男性の魂が宿ったと思ったのだと思う。

私の魂はじつは女性ではないけれど男性でもない。
女性:男性=5:5ぐらいか?日によっても違う気がする。
私のジェンダー、私と元カノがしっかりとしたパートナーであることを、
なるべく理解しようという先生の気持ちが伝わってきてうれしかった。

先生は私のことを大層気に入って、毎回私の診察に膨大なおしゃべりをした。
私も先生も笑いっぱなしで、ほとんど治療と関係ない話ばかり。
私の次以降の患者さんを長く待たせてしまった。ごめんなさい。
先生はとても腕のいい先生でもある。
元カノに「痛み恐怖症」とからかわれていた私。
エコーや内診に毎回かなり緊張する私にアレコレ笑える話をふって、
私が笑っている間に私の苦手な検査を終えてしまう先生。
痛みもほぼなし。
私の病気が進行したため今は別の病院に通っているけれど、
年賀状のやり取りで先生の自宅の住所を教わったので、
いつか手紙を書いて近況報告したい。
ちなみに先生は偉くなったので、だんだんと長話ができなくなった。

 

私のセクシュアリティ


私のセクシュアリティはヘアスタイルやファッションをメンズライクにしていれば、
体を男性にせずとも心は十分満ちる。
また、ここ15年ほどで自分の魂や心が男の子っぽいところもあるけれど、
基本女性なのだと肯定できるようになった。

子どもの頃、私は弟たちと同じように男の子なのだと思っていた。
初潮が来て私は女の子だと思うようになったけれど、自分が女の子なのが嫌だった。
高校生の頃には男の子になりたいと思った。
大学生で2丁目に行くようになり、
ホルモン注射?で体や声を男性にしている人を見て憧れた。
しかし、意気地なしの私がおっぱいを手術するなんてできるわけがない。
当時仲良くしていたセクマイの友達にもやめた方がいいと言われてやめた。
人に言われてやめるぐらいの気持ちだったと言うこと。

それでも自分の体に対する嫌悪感があったことは確か。
下着を買いに行くとか生理用品を買うとか自分の胸が大きいこととか。
すべて嫌でたまらなかった。

過去ふたりの彼女に私は自分は男になりたいと何度も言った。
その度にふたりはあなたが男だったら、あなたのことを好きにならなかったと言った。
何度もそう言われて、とくに元カノに何度も言われて、
だんだんとどうでもよくなってきた。
私はボーイッシュだけど女性より男性に好かれることも少し影響した。
私は人から見れば、とくに男らしくないのではないか?
だんだんと自分の心とか魂がそこまで男らしくないことが分かってきた。
もちろんそれは前の彼女のおかげが大きい。
私はどうも女子力高めらしいのだ。
元カノは私の最愛の人。
元カノという鏡が私は見た目はボーイッシュだけど女子力が高いということを、
そしてそんな私はそれなりに素敵なのだということを教えてくれたのだ。
私は元カノに愛されたおかげで、
心も体も玉虫色の私をそのまま受け入れることができたような気がする。

昔実家で当時流行ったアメリカンショートヘアをたくさん飼っていた。
理由があって去勢できない雄と雌がこっそり交尾してしまった。
5匹のかわいい子猫が生まれた。
みんなか美しい縞模様。その中の1匹はとても変わった風合いだった。
きれいな縞模様でなくグレーが自由にグラデーションしていた。
その子以外はお世話になっていた動物病院の看護師さんにもらわれた。
その変わった風合いの子はもらい手がなかったり、
かわいがってもらえないのはかわいそうだからウチで飼うことにした。
私たちはフウと名づけて、その子をかわいがった。
あとで知ったけれど、その風合いは珍しくて貴重な模様なのだそう。

私は自分とフウを重ねる時がある。
最初は醜いかもしれないと思ったその姿が珍しくて貴重で素敵なのだと。

私は見た目と中身がミスマッチかもしれない。
でも、そこが私の魅力なのではないか?
フウが生まれてきた時のことを思い出す度、そう思うのだ。
そして、そう思わせてくれた魔法の鏡である元カノにいつもいつもありがとうと思う。

 

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